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チャールズ・ハワード (第11代ノーフォーク公) : ウィキペディア日本語版
チャールズ・ハワード (第11代ノーフォーク公)

第11代ノーフォーク公爵、チャールズ・ハワード(、1746年3月15日1815年12月16日)は、イギリスの政治家、貴族。
代々カトリックであるノーフォーク公爵の中でプロテスタントに改宗した異色の人物である。プロテスタントに改宗したため庶民院議員・貴族院議員を務めることができ、ホイッグ党の政治家として自由主義的な活動を行った。
父が爵位を継承した1777年から自身が爵位を継承する1786年までアランデル・サリー伯爵(Earl of Arundel and Surrey)の儀礼称号を使用した。
== 経歴 ==

1746年3月15日、後に第10代ノーフォーク公となるとその妻キャサリン(旧姓ブロックホールズ)の息子として生まれる〔DNB〕。でカトリックの家庭教師から教育を受けて育つ。またフランスにも長く留学していた〔。
当時はカトリックに議員資格の無い時代であったため、政界入りを希望していた彼は1780年プロテスタントに改宗した〔海保(1999) p.213〕。そして1780年1784年の選挙でから当選して庶民院議員となった〔。議会内では自由主義政党ホイッグ党に所属し、フォックス派として自由主義的な活動を行った〔。1780年には提出の「王権を封じるべし」との動議に賛成した〔海保(1999) p.176〕。またアメリカ独立を擁護し、アメリカへの派兵に反対した〔。
1782年8月に副紋章院総裁となり、1782年9月にはに就任した〔。
1786年8月31日に父が死去し、第11代ノーフォーク公爵位とノーフォーク公爵家の世襲職紋章院総裁職を継承した〔。プロテスタントに改宗していたので、そのまま貴族院議員となる〔森(1987) p.47〕。貴族院議員となった後も自由主義者として活動し、奴隷貿易廃止や選挙法改正を訴えた〔。また1798年1月24日の晩餐会の席上では「人民という君主のために乾杯する」と音頭を取ったが、これに国王ジョージ3世が激怒し、西リディング知事の役職を免職されている〔〔。
1807年1月14日にはに任じられているが〔、死去の直前の1815年6月にマグナ・カルタ六百年記念パーティーを催しており、最後までホイッグ貴族として自由主義者の立場を崩さなかった〔。
1815年12月16日にので死去した〔。同月23日にサリー州に埋葬される〔。
嫡出子の男子がなかったため、三従兄弟(みいとこ)のバーナード・ハワードがノーフォーク公爵位を継承した〔。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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